Irelandの西端のGalwayでのSalmon fishingを楽しむ
(本原稿は日本醫亊新報、平成4年11月7日号に掲載された拙文をもとにしたものです)
アイルランドは、アイルランド海をへだてて英国の西に位置する、人口300万人余りの小国である。この国については宗教上の対立による北アイルランドとの粉争のため、日本では何となく危険な所という印象があるかもしれない。また最近では、宗教上の理由から国が妊娠中絶を認めず、強姦をうけた少女がこの目的で渡英することを禁じたため、ヨーロッパ連邦設立の足並みがそろわないということでも話題になっている。
さて、医学の面では、この国が近代医学の発展過程において十九世紀を中心に数多くの偉大な医学者を生み、初期のアメリカの臨床医学に大きな影響をおよぼしたことは、あまり語られることがない。われわれが学生時代に機械的に頭につめこんた病名や症侯群の多くが、アイルランド医学の残したものであることは、忘れ去られていると言っても過言ではなかろう。本稿では現在でも症候群や病名にその名前が残っている十九世紀のアイルランドの医師たちを紹介し、医学の歴史におけるアイルランドの果たした役割について考えてみたい。
近代医学の歴史を組ると、中世ヨーロッパにおけるいくつかの医学校が及ぼした影響を、一連の流れとしてたどることがでｂるB最初の医学校は12世紀のイタリアのSalrenoに生まれ、その影響によって同じくイタリアのBologna, Pauda,そしてヲンスのMontpellierの各大学に医学校が発展した。これらの国々はルネッサンス期にはヨーロッパ医学の中心的存在となった。しかし17世紀の後半にはイタリア医学は哀退し、オランダのLeiden大学がヨーロッパ医学の中心的存在として台頭してくる。このLeidenの発艮は、ひとえにベッドサイド教育を導入したHermann Boerhaave（1668-1738）によるところが大きい。Boerhaaveの教え子であるGerhard van Swietenは、ウィーンにLeiden式の医学教育をもたらし、18世紀のヨーロッパ最大の教育病院のひとつAllgemeines Krankenhausの設立につながる。
また、やはりBoerhaaveのもとで学んだAlexander Munro（1697-1767）は、スコットランドのエジンバラで医学校を設立し、その後三代にわたるMunro家の医師達によって、エジンバラ大学は18世紀の英語圏で医学教育の中心的存在となる。アイルランドの多くの医師達は、Boerhaaveから直接、あるいはウィーン、エジンバラで学び、これが十九世紀のアイルランド医学の開花につながるのである。
中枢性失調呼吸の代名詞であるCheyne-Stokes呼吸は、John Cheyne (1777-1836)によって最初に記載されたものである。Cheyneはスコットランドで生まれ、エジンバラ大学を1795年に卒業した。その後、軍医としてしばらくアイルランドに滞在したが、エジンバラに戻り、顔面神経で知られるSir Charles Bell (1774-1842)のもとで、小児喘息、急性水頭症、喉頭気管支の病理などについての論文を発表している。後に彼はDublinにうつりCollege of Surgeonsの内科教投となった。彼は、アイルランドでの最初の医学雑誌であるDublin Hospital Reportsの創刊(1815)に貢献し、1818年には、"A case of apoplexy in which the freshly part of the heart was converted into fat"という論文を発表するが、この論文中に、後にCheyne-Stokes呼吸という名前で呼ばれるようになる、失調性呼吸の症状が詳細に記述されている。このDublin Hospital Reportsは1820年まで続くが、最終号は、若くして秀でたRobert Graves (1796-1853)が編集を担当している。Cheyneの後任として内科教授に就いたのは、Wgitkey Stokes (1763-1845)であったが、彼の次男William Stokes(後述）が、Cheyneの失調性呼吸の記載の意味を明確にし、世に広めるようになる。
甲状腺疾患にその名がつけられているRobert Gravesは、1796年にDublinに生まれ、1818年にTrinity College（1592年創立）を卒業して医師となった。彼は、解剖学と外科学の教授であったJames Macartney (1770-1843)の影響で解剖学を学んだ後、Gottingen, Copenhagen, Berlin, Wienなどヨーロッパ大陸各地を旅し、 フランス革命後の自由な気風の中で、ベッドサイドでの臨床教育の重要性を確信した。1820年にDublinに戻り、Meath病院で内科を始め、医学生に臨床病理の重要性を説いた。1827年にSchool of Physicsの教授となったが、時代の改革者がまわりから強い抵抗にあうのは世の常で、当時講義中心であった医学教育に臨床教育を取り入れようとしたGravesも、例外ではなかった。しかし彼は、臨床教育を通して学生の知的好奇心を刺激するように努め、学生たちから強い支持を得た。この学生の中にWilliam Stokesなど次の世代を担うことになる者が出てくるわけである。
Gravesは一八三五年にLondon Medical and Surgical Journalに"Newly observed affection of the thyroid gland in females"という題で論文を発表し、後にGraves diseaseとして知られる、眼球突出をともなった甲状腺腫の臨床住を詳細に記載している。この疾患はヨーロッパ大陸では、彼が記載した5年後の1840年にvon Basedowが報告し、Basedow病として知られるようになる。同様にGravesは、Quincke浮腫で知られる血管神経性浮腫を、Henrich Quinckeの40年近くも前に明確に記載している。また、Gravesは聴診器を初めてアイルランドに導入したことでも知られている。脈拍の性状から診断を下すという方法を科学的に確立したのもGravesで、医師の姿として人々が思い浮かべる「脈をとる」姿の原点であるともいえる。
1843年には"Clinical Lectures on the Practiceof Medicine" という900ページにのぽる教科書を著し、これはドイッ語、フランス語、イタリア語に訳されるほど好評を得た。フランス語版の序文は、Armand Trousseau (Trousseau signで知られるフランスの内科医）によるもので、Basedow病はGraves病と呼ぶぺきだと最初に主張したのも彼であった。
Gravesの臨床教育改革の少ない協力者の一人にWhitley Stokes (1736-1845)がいた。 Stokes家にはその後代々優れた医師が生まれるが、彼が最初の医師である。 Trinity Collegeとエジンバラで医学を修めたのち、1819年にJohn Cheyne後任としてRoyal College of Surgeonsの教授、その後Royal College of Physicsの教授も務める。
William Stokesは彼の次男で、1804年に生まれ、Gravesの最初の学生の一人となる。William Stokesは1816年にフランスのLaennecが報告した聴診器に興味を持ち、すでに1821年に医師になる前に226ぺージにわたる聴診に関する本を書いている。これは英語での最初の聴診の教科書となったが、これには現在でも医学生にとって十分役に立つ記載がなされている。Stokesは、当時の老医師達がばかげたおもちやと評した、聴診器の価値を時代にさきがけて認識していたのである。
1825年にエジンバラで学位をとり、翌年Gravesの元に戻ったStokesは、Gravesとともに聴診の基礎を築くために孤軍奮闘し、英語圏での聴診の普及に貢献した。その後1840年にはClinical Lectures on the Theory and Practice of Medicineという教科書を著し、この本は長年アメリカで教科書として用いられた。彼は肺炎の病期分類やCheyne-Stokes呼吸、Adams-Stokes症侯群でも知られる。
William Stokesとともにェジンバラで学んだアイルランドの医師として、John Creery Ferguson (1802-65), Dominic Corrigan (1802-80)をあげることがでｂるBFergusonは、当時の英語圏で初めて妊娠の診断に聴診器を用いた先駆者で、アイルランドの産科病院であったRoutunda病院がヨーロッパの産科の中心的存在になるきっかけをつくった。一方、Corriganは血流動態に興味を持ち、1832年に大動脈弁閉鎖不全に関する報告を行い、その名は現在Corrigan diseaseあるいはCorrigan signとして残っている。
Adams-Stokes症侯群として知られている不整脈による意識消失発作は、Robert Adams (1793-1875)が最初に記載したものである。彼は、Dublin大学卒業後、Abraham Colles（後述）のもとで主に外科学を学び、その後、ョーロヅパ大陸の病院で研鑽した。1818年にDublinに戻った彼は、1826年にはRichmond医学校を創設している。1827年Dublin Medical Reportsに発表した論文の中で、Adamsは、脈拍が毎分20程度で過去に20回以上もの意識喪失発作を起こした患者を記載している。その後20年近くたってWilliam Stokesがこの症状を詳しく分析し、Adamsの症例の詳細な検討も加えて報告したのが、現在のAdams-Stokes症侯群の始まりである。
Adamsは、1840年には関節の滑膜嚢胞の病理について報告しているが、現在膝窩部の滑膜嚢胞として知られているBaker嚢胞を、英国のWilliam Bakerが報告したのは1877年である。
Adamsが十九世紀のアイルランドの内科医を代表するとすれば、外科医の代表としてAbraham Colles (1773-1843)をあげることができる。 Collesは、『ガリバー旅行記』の著者John Swiftと同じくKilkenny Collegeで学び、1790年にTrinity Collegeに入ったが、1795年にはエジンバラに移り1797年に学位を得たDublinに戻った後、1804年に，College of Surgeonsに外科医として籍をおくと、すぐに才覚をあらわし、講義に多くの学生を引きつけるようになった。会陰部のColles筋膜、鼠径部のColles靱帯などに名が残っているが、もっともも有名なものは、手根部での典型的な骨折であるColles骨折であろう。しかし、1814年のこの骨折の記載は、当時あまり注目されず、1847年にやはりDublinの外科医であるRobert Smith（後述）がCollesのoriginalityを強調するまで待たなければならなかった。梅毒の治療に水銀を用いることを強蘭したのもCollesである。
晩年、彼は痛風と呼吸苦に悩まされて、William Stokesの診察を受けた。Stokesの診断は気菅支喘息であったが、Colles自身は心臓弁膜症ではないかと思い、自分の死後に解剖して確認することをStokesに託した。1842年に亡くなった後、Robert Smithによって解剖が行われ、その結呆は肺線稚症と心肥大で弁膜症はなかったとのことである。
Collesのもとからも傑出した外科医や解剖学者が多く巣立っている。中でも恥骨管(Alcock's canal)を最初に記載したBenjamin Alcock, 網膜の神経層を最初に記載し、かつてJacob潰瘍と呼ばれ今はrodent ulcerで知られるArthur Jacob、第一中指骨の骨折で、Bennet骨折の名で知られるEdward Bennet，耳鼻科医のWilliam Wilde（後述）などがあげられる。
Colles骨折の名前を有名にし、その逆の骨折に名前がつけられているRobert Smith (1807-76)はWilliam Stokesの義理の弟である。彼は1847年に"Treaties on Fractures in the Vicinity of the Joints"という本を著し、手関節部の骨折の一つをjSmith骨折として、その逆の転位の骨折をReversed Smith骨折、あるいはColles骨折と記載した。また同年にTreaties on the Pathology, Diagnosis, and Treatment of Neuroma"という本で神経線維腫症の病理学的所見についても報告している。この報告は、von Recklinghausenの本症に関する仕事よりも30年以上先になされてる。
またびSmithはWilliam StokesとともにPathological Society of Dublinを創設したことでも知られ、この研究会は1838年にGravesを会長として始まった。この会はその後、ロンドン、リバプール、バーミンガム、フィラデルフィアなどに同様の臨床病理の研究会が生まれるきっかけとなったのである。
William WildeはAbraham Collesの弟子で、医学だけでなく考古学や文学にも偉大な足跡を残したばかりか、小説家Oscar Wildeの父親としても有名である。Park Street医学校で、その創設者であるJames Cusack (1788-1861)から医学を学んだ。卒業後、持病の喘息療養のためエジプトを旅したことがきっかけとなり、考古学に興味を持ち始め、生涯アイルランドの考古学界にも貢献した。エジプト滞在中にはトラコーマの研究もしている。
その後ロンドンで眼科学を学び、Gravesの弟子であるRobert Todd（けいれん後の仮性麻痺で知られる）とも親交を重ねた。ウィーンのAllgemeines KrankenhausではCarl Rokitansky (1804-78)から病理学を学び、Dublinに戻った。彼は、そこで眼科および耳科の専門病院を設立し、後にここは英国やアメリカからも留学生を迎える専門病院へと発展する。この間Wildeは耳科用のピンセットや、Wilde's snareとして知られる耳科用琴線を発明したり、乳突洞炎手術のためのWilde切開などを考案した。
Wildeの名前は、鼓膜に見られるWildeの光円錐でも知られる。これはョーロッパ大陸ではPolitzer円錐と呼ばれるが、Politzerはウィーンの耳科医で、この円錐を記載したのは十九世紀後半になってからである。wildeが1853年に著わした耳科学の教科書は、耳科学の最初の教科書として英国、アメリカ、ドイッなどで長年にわたって重宝がられた。
産科学でもアイルランドは一時中心的存在となった。Rotunda病院ではRobert Collinsの在任した1826年から1833年に妊婦死亡率を、徹底的な清潔の概念を導入することで、著明に低下させることに成功した。彼は、産褥熱が伝染性のものであるとの考えから、使用する病室を順に代えていくこと、助産婦はその病棟から外出しないこと、病室の壁や天井を石灰で処理すること、空いた部屋は塩素消毒すること、医師や助産婦は手洗いを励行することなどを徹底したのであった。
現在では産褥熱の発症を低下させたのはウィーンのIngaz Semmelweisということになっている。しかし、 Semmelweisが1825年に発行されたRobert Collinsの教科書を読み、DublinのCollinsのもとで勉強するために英語の勉強まで始めていたのが、突然その計画が失敗したため、独自にウィーンでCollinsのやり方を追試していったという逸話は、あまり知られていない。1851年当時、過去22年間の平均妊婦死亡率がパリで4.18、ウィーンで5.35であったのに対し、Dublinでは1.34であった。
その他でも、いろいろなアイルランドの医師連の名前をあげることができる。william Wallaceは軟性下疳を最初に記載した。John Houston (1802-45)は、初めて顕微鏡で癌細胞を観察し、また直腸の Houstonでも知られる。Francis Rynd (1801-61)は、フランスのリョンで注射器が発現される以前に、初めて自家製の注射器で皮下注射を行い、モルフィン注射による痛みの治療を行った。Francis Cruise (1834-1912)は光源にロウソクを用いた膀胱鏡を作り、現在の内視鏡の原型となった。
以上にあげただけでも、19世紀のアイルランドにおける医学が、いかに現在の臨床医学に脈打っているかがわかる。当時の他の国々の医学でもそうであったのかもしれないが、19世紀のアイルランド医学の特徴は、あくまでも臨床における観察を重視し、強烈な個性と才能に恵まれたGravesやCollesのような指導者が情熱をつぎこんだ結果、つぎつぎにそれぞれの時代を担う臨床家が生まれてきたことであろう。
しかし当時のアイルランドは、この国の歴史でもっとも厳しい時代でもあった。1841年から約10年間続いたジャガイモの胴枯れ病による大飢饉、そしてコラやチフスの大流行のため、1845年には850万人であった人口が、51年には655万人までに激減し、多くの人々は祖国を捨てアメリカヘ移住していった。医師違自身もこれらの病気のため多くが治療中に感染し死亡したという。このような逆境に耐えながら臨床医学の基礎を築いたアイルランド医学も、その後のベッドサイドでの診察中心の医学から、検査を中心としたより技術的な医学へという、時代の変化についていくことができなかったのである。これは、単に経済的あるいは技術的理由によるものだけではなく、アイルランドの医師違の気質が、このような医学の変化を容易に受け入れることができなかったものと私は考えたい。
本稿の内容の多くは、Davis Coakley著「The Irish School of Medicine, Town House, Dublin, 1988」を著者の許可を受けて参考にしたものである。
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